samansa59’s blog

訪問看護の仕事の中で感じたことなど自由に書いていきます。

苦情

70才代、女性 胃癌末期 認知症、独居。同居している長男さんは有職者で帰りが遅いため、長女さんが毎日足を運び介護されていた。経口摂取ができなくなり、水分摂取も少なくなってきて尿量減少。娘さんは、点滴を希望された。少しでもいいから母親に生きていてほしいという気持ちからだった。当ステーションのスタッフ訪問し、点滴を行う。1日目はどうにかできたが、2日目には血管が細く入らなかった。主治医報告し、できなければいいとの見解で家族に説明した。

翌日、娘さんから苦情の電話が入る。

「昨日来た看護師さんはどういう人ですか?点滴刺す時、今から点滴しますと説明しないから母がびっくりして痛い!っていいました。それに、血管がみえないことはわかりますが、私に“ここが血管ですよね”と確認とるんです!素人の私にわかるはずもありません。点滴ができなかった時に私に責任をなすりつけようとしたんです。だいたい、血管が見えにくかったら、温タオルで手を暖め、血管を見やすくするように努力するでしょ?清拭する時も、いきなり暑いタオルで拭くから、母は驚いていました。認知症があるから、説明して行うのは常識でしょう!もう、あの看護師を来させないで下さい。」

すぐ、患者様宅に訪問して、再度事情を聴く。陳謝して、今後このようなことがおきないようにスタッフ全員で話し合う事を伝え、了承を得られた。

苦情申し立てして、すぐ対応した事で、娘さんは安心したと仰られた。

娘さんは、その看護師に、心のこもったケアをされていないと感じたのだ。

本人に面接。訪問看護6年目。普段から無愛想で、コミュニケーションが下手な看護師だった。

今までにもカンファレンスで看護サービスとは何か、コミュニケーションとは何かスタッフ全員で研修を行いスキルを共有してきたつもりであったが、結局、一人一人の看護師の問題で、研修内容を実行できていなかった結果である。

面接で再指導したが、この看護師にとって“相手の立場にたった、心のこもったケア”はどんなケアなのだろうか?

当分、OJT行う予定である。

別れ

84才の医師。訪問看護を積極的に導入して下さり、急変時にはいつでも対応して下さる元気の良い医師であった。しかし、高齢とともに体力は低下、ある日吐血して入院された。退院後は仕事整理され医院を閉じられた。

59才医師。医師である父親の介護を長年され在宅で看取りをされた。母親も寝たきりとなり、自宅介護。診察の合間の時間、休日もすべて介護に費やした。他人に任せることができず、頑張りすぎた。責任感の強い医師であり、患者さん思いの医師であったが

自ら命を絶った。

80才医師。訪問看護師の話をいつも丁寧に聴いて下さる温和でやさしい医師であった。いつも朝風呂に入る習慣があった。ある日、奥様が浴室で倒れている姿をみつけた。帰らぬ人となった。

連絡協議会で長年訪問看護ステーションの管理者をしている友人が人事異動で施設の管理者に変わることになった。20年訪問看護に携わってきている友人が去るのはとてもさみしい思いであるが、組織の中の命令では仕方がない。

いつもより寒い冬。別れの寂しさや空しさも重なり、気持ちが晴れない日々が続く。

 

ぎりぎりの生活

50才代の妻は神経難病を患っていた。介護をしながら4つのアルバイトをかけもちして夫は働いていた。朝4時に起き、新聞配達、7時に帰宅し30分後には出勤。昼1時間帰ってきても妻への食事準備・片付けで、夫自身がろくに食事をとれる余裕がない。4つのアルバイトしても収入はしれている。妻の週1回のデイサービスと食事代、オムツ代、訪問看護費用が出せる限界だった。

暖房のない部屋は、外よりも寒く感じた。電気ストーブをつけ、せめて熱い湯でタオルをしぼり、暖かいタオルで十分体を温める。「あーー、温かい・・・」冷たい足は、足浴をして足を暖めたあとクリームをつけてマッサージを行う。そうしないと凍傷にかかりそうであった。ベッドサイドにペットボトルが準備してるが、凍えそうな寒い部屋で冷たい水は飲めない。電子レンジで牛乳を暖め飲んで頂く。

ある日、市民病院から訪問看護ステーションへ電話があった。夫が泌尿器の精査検査に受診しないので連絡を取りたいとのことであった。以前から夫は血尿がでていた。訪問看護で何回も受診を勧め、やっと受診したあと、精査する必要があると言われているのに受診が途絶えていた。泌尿器の医師が心配していると・・・

夫にそのことを伝えた。「悪いことは分かっている。お金がないから治療できないし、その間 妻を施設へ預けるお金もない。ま、いいですは・・・死ぬときは死ぬだけです」

二人の娘さんに連絡をとり、状況説明。娘さんから説得してもらったが、頑として受け入れない。 夫にも覚悟があるのだろう。 

ぎりぎりの生活。結局、「無い袖は振れない」のである。

せめて、訪問看護で関わりながら、 こと夫婦を支えていくしかない。

これから、このような人びとが増える時代になってくる。

心の支え

夫婦ともに70才前半。夫は大腸癌、妻は子宮がんを患っていた。夫のストマ交換に週2回訪問している。訪問すると、大抵妻は 奥の居室で横になっている。

「食事はどうされていますか?」「おれが、近くのスーパーへ自転車で買いに行っている」「でも、座るとおしりが痛くて大変と仰ってみえましたよね?」「おれが買い物行けなきゃ、餓死するまでだ」「入浴はできていますか?」「できてる!できてる!」「介護保険申請して、ヘルパーさん頼みましょうか?」「人の世話になりたくない。まだできる!」そう言われているが、室内は散乱し、台所は洗いものがたまっている。浴室も入浴した気配がない。薬の飲み忘れも多く、特にオピオイドがきちんと服用できていなかったので、服薬管理もすることにした。妻の様子も気になり、顔を覗いてみると、かなり具合が悪いようである。妻も内服がほとんど飲めていない。「次回の受診はいつですか?」「1か月先」「明日にでも一度受診した方がいいですよ。」「じゃあ、診てもらうわ」結局入院となった。

70才前半。60才代を元気に過ごされ、60才代後半で見つかった病。それも夫婦二人ともに発症した。こんなはずではなかったと思う気持ちに反して、進行する病気。心と体のアンバランス。気力、体力が落ちていく自分を認めたくない思いが先行し、看護師に強がってみせる。

本人の気持ちを尊重して、週2回見守ることにする。しかし、観察は十分行い、介入すべき時期は逃さないことが肝要である。

「いつでも、私達がいます!何かあったら相談して下さいね」「わかってる。ありがとう」 

「妻の受診、看護師さんに言ってもらって良かった。入院短期間で済みそうだ。おれのいう事聞かないから、あいつは・・・」

自分たちの事をわかってくれている人がいる、いざとなったら手を差し伸べてくれる人がいることは、心の大きな支えとなる。患者さんとその家族を含め、支えることができるのが訪問看護だと感じる。

 

赤い糸

78歳夫婦二人暮らし。内縁関係であったが夫が肝臓がん末期と診断された昨年に入籍をした。妻は本当に献身的に介護をされていた。朝から晩まですべて夫のために時間を費やした。内縁関係が長かったため、近所付き合いは全くない。子供もいない。毎日入る訪問看護師との会話だけが、妻にとってと慰めだった。食が細くなれば、朝5時に起きて野菜を蒸し、裏ごししてペーストを作る。何時間も煮込み肉を柔らかくする。頻尿である夫は、夜間5回トイレに行くが、すべて付き添った。妻はいつ寝ているのだろう・・・と思わせるような働きぶりだった。

終末期になり、妻へは予期的悲嘆に対する説明を重ね、最期の時を穏やかに迎えられるように準備した。そして夫の他界。

ご遺体を葬儀場に運ぶときに、妻は夫の小指に赤い糸を結んだ。

あの世でも一緒になれますようにと、妻は願っていた。

1週間ほどして訪問。遺影の前で座り込む妻。少し痩せてみえた。「ちゃんと食べていますか?」「食べているよ」介護していた時のことを話しながら、延々と涙を流す妻。

最初は言葉をかけていたが、その悲しみの深さに最後はかける言葉を失った。

妻の様子をみているうちに、後追い自殺をするのではないか?と脳裏をよぎった。

「決して、命を絶つようなことはしないで下さいね」思わず言葉にでてしまった。

「そんなことはしないよ。自殺すれば地獄に落ちる。そうなれば、あの世であの人に会えないじゃない」 弱弱しく微笑んだ。

外には、夫の車が処分せずに置いてある。その車はお守りとして、ずーと駐車場においておくとのこと。

「何か困ったことがあったら、電話くださいね」 家を後にした。

あの世でも、赤い糸で結ばれた人と会えますように・・・心の中で深く思った。

いろいろな人間模様

ある社長さんのお母さま。胃がん末期状態。できる限り家で看たいという希望で訪問看護の依頼があった。居室は2階にあり、景色の良い庭が眺められる。

訪問すると常に長男がいた。看護師のさまざあまな提案に対して、「そんなことは望んでいない。点滴だけやってくれればいい」と言う。それでも、私は本人にしたいこと、やりたいことはないか聴いた。「庭が見たいから、廊下の椅子に座らせてほしい」

「無理するとあとでえらいから寝ていたほうがいい」「私は絵手紙が好きで、今までいろいろ書いたのよ」「その作品みたいですね」「そんなものは昔の話だ」・・・

本人の希望や要望は、ことごとく却下されていく。次男や長女はいつも来訪するが、すぐ帰っていってしまう。

この長男は、最期に何をしてあげるつもりなのか・・・

もう一人、脳腫瘍の末期の患者さん。女性。最期を家で過ごしたいと帰宅。子供さんが3人。孫が6人。患者さんのことを皆でKちゃん、Kちゃんと呼ぶ。夫は、仕事以外、常にそばに寄り添い、声をかける。訪問すると、ベッド横でうたた寝しているので「少し休まれてはどうですか?」と夫にいうと、「残り少ない時間、そばにいたいんだ」といい、かいがいしく世話をする。そばでは、お孫さんがおかしの奪いあいをして大騒ぎをしている中、本人は穏やかな笑みを浮かべる。本人が少し痛い顔をすると、お孫さんがそばにきて「Kちゃん痛いの?どこが痛いの?さすってあげる」という。5歳の女の子のその手は、天使のように見えた。

いろいろな在宅。いろいろな最期。さまざまな人間模様がある。

訪問看護の営業

高齢者の多死時代。

昨年12月から、今年の始めで利用者の数が15人減少した。在宅死、入院後死亡など合わせた数である。ある患者さんは、病院で亡くなったと聞いて、土日をはさみ月曜日に挨拶に伺った時に、ご遺体がまだ家に安置されていた。火葬場が混んでいて、順番待ちだとのこと。

以前聞いたことがある。将来、高齢者の死亡に火葬場が追い付いていかないため、火葬フェリーに乗りこみ、湖を一周するうちに何十人もの火葬を済ませるのだと・・・

恐ろしい時代となった。

現実には、これだけ利用者が減ると 経営に関わってくる。訪問しない時間をマニュアルの見直しや、看護計画の再立案、ケア内容の見直し、年間サマリの時間に当てられると思うが、訪問患者さんがマンネリ化してくると、かえってモチベーションが維持できない。

訪問看護の新規患者の統計をとっているが、12月から2月は毎年低迷しているから仕方ないか・・・

訪問看護の必要な、潜在患者さんは いくらでもいるはず。

ここらで、また営業をかける必要がある。頑張ろう!