samansa59’s blog

訪問看護の仕事の中で感じたことなど自由に書いていきます。

内服管理

正月早々に患者さんの息子さんから電話が入る。

「糖尿病の赤い薬が朝の所に入っていない」とのこと。トラゼンタの配薬漏れだった。すぐ訪問して、セットし直す。

どうしてこのような事が起きるのか?

この患者さんは内分泌内科、神経内科泌尿器科と3つ受診しており、受診日が異なるため処方薬をバラバラで管理しないといけない。必ず、薬の説明書と照らし合わせ、セットするのであるが、なぜか内分泌内科の説明書が入っていなかった。前回セットした看護師が薬袋があるから、わかると判断した結果であった。

この患者さんの家は高齢な妻が内服管理できないため(認知症があり、薬を自分の薬と混ぜてしまう)ステーション管理にしている。こんなことなら、息子さんと話し合って、息子さん管理でも良かったのではないか?

ステーションでは、必ず最新の薬の説明書と照らし合わせて薬をセットするようにしている。マニュアル通りに行わなかった看護師がいたせいで、次に訪問した看護師のミスにつながった。今回は、家族が早々に気付き 服用することができたが、今までも 違うパターンで内服セットミスは起きている。

その都度、事故報告書作成し、全員でカンファレンスを開催し対策を話し合っているにも関わらず、どうし同じことが起きるのか?

各個人の注意ミスか、常に問題意識を持って働いていないためか?患者の情報収集不足か?   また、私の血圧があがる材料が増えた。

国家資格のある看護師である以上、きちんとした仕事をしないといけない。

来週 全員が出勤している日にカンファレンス開催。気を引き締めないといけいない。

ちょっとしたミスが、大きなミスにつながる。リスク管理必要である。

マグロの刺身

少し前の話。

田舎の大きなお屋敷に90才の患者さんと93才の夫が暮らしていた。

90才の妻はパーキンソン病で寝たきり状態であった。

終末期。嚥下障害が進み、固形物は食べられなくなった。とろみをつけたり

ゼリー食にするように説明。夫はある程度受け入れたが、マグロの刺身だけは

そのまま妻の口にいれるのである。「おまえは、マグロの刺身が好物だったからな」

曲がった背中で、冷蔵庫から刺身を取り出し、ぎこちない足取りで妻の元へ・・・

節々だった太い指で箸を使い、刺身を妻の口に中へ入れるのである。

嚥下できないので、いつまでも口腔内に残っている。ヘルパーさんも困った。

主治医から、夫へは説明してもらったが、その時は「はいはい」と言われるものの

毎日、マグロが口の中に入っているのである。

戦時中、戦後食べ物のない時代を過ごしてきた二人。ごはんさえあれば御馳走。

それにマグロの刺身はめったに食べれなかった。残り少ない命であれば、好きな物を毎日食べさせてあげたい。夫の妻への思いでもあった。食べれないことは承知している。窒息の可能性を覚悟の上で、承諾せざるを得なかった。

大晦日の日。雪が降る中、妻は永眠された。静かな最期であった。

マグロの刺身・・・大晦日が近くなると、いつも思い出す。

御用納め

今日で御用納め。癌末期や点滴の必要な方の訪問は年末年始まで続くが、事業所としての業務は終了する。1月から今まで約80人の新規患者を受け入れた。在宅での看取りは25名。12月に入り、多くのかたが亡くなり、利用者が減ったため、いろいろと見直す時間もできた。マニュアルの見直し、事業報告のまとめなど普段じっくりできていなかったことに時間を費やすことができた。

訪問看護ステーションの実習や研修受け入れも76名あった。忙しい中、各スタッフが患者説明や同行訪問など本当に頑張ってくれた。ターミナル患者9名を同時進行で看ていたときは、本当に繁忙で大変だったが、皆で協力して乗り越えた。

各スタッフのスキルがあがり、一人でマネージメントできるようになったおかげだ。

管理者が、スタッフそれぞれの強みを見出し、伸ばすとともに 弱いところをフォローする。そして、管理者自身が絶対ぶれない信念を持って仕事に望まないといけない。 すべては「患者さんのために」。患者さんのために訪問看護師として何をすべきか・・患者自身の疾患の理解、全身状態の把握、ADL状況、家族関係、家族の介護レベルや理解度、介護スキル、居宅環境、金銭的問題、主治医との連携、在宅チームとの協働、そして患者自身がどうしたいと考えているか・・・ありとあらゆる方向からアセスメントして何をなすべきか考えていく。そしてすべてを統括できるコミュニケーション能力と導いていく力を兼ね備えないといけない。患者さんのために、医師に意見をいうことも必要。 スタッフ全員が、トータルマネージメントできるようになってきている。 任せられるということは、管理者としては嬉しい限りである。 エキスパートな看護師は、個別性に応じた看護を直観的に実践している。

来年はその直観的実践が確実に記録に残るようにしてきたい。良い看護をしていても、記録にして継続看護できなければ意味がない。頭の中で行っている看護過程がきちんと記録に残ることが重要。まだまだ、課題がたくさんある。

来年も一つずつ達成できるように、事業計画をしっかりたてようと思う。

 

 

自分の生きた証し

終末、鹿児島に旅行した。日々の喧騒を離れ、静かでゆっくりした時間を過ごせた。土日だけしか営業していないそば処「みなみ」で昼食。手打ちそばは昔、祖母が作ってくれた味と一緒で懐かしく暖かな気分になった。お客さんは私達だけ。挽きたてのコーヒーもサービスで頂いた。夜は霧島の温泉でゆっくり体を休めた。

普段と違う空間に身を置くことで、心と体はリフレッシュできる。薄明かり温泉に湯の華がゆらゆらとして、非日常な時間は、生きていることを実感できる。

過去を悔やむことなく、未来を憂うことなく、今この時を精一杯生きよう。今を精一杯生きれば、過ぎ去ったことへの悔いは残らない。今、精一杯努力すれば、未来は必ず開ける。

来年は、パラグライダーに挑戦しよう。一度、空を飛びたかった。鳥のように・・・

いらない物をすべて捨てて(断捨離) スッキリしたい。歳をとると余分な物はいらなくなって、最低限の物で暮らしたくなる。実際、忘れっぽくなって物の管理ができなくなったことも事実。年齢に伴う身体の衰えを素直に受け止めながら、これ以上衰えないように毎日少しづつ運動をしよう。誰かと一緒に過ごす時間を、大切にしよう・・・

自分の「生きた証し」を、数多く残せるように、生きていきたい。私の人生の最期の時まで、精一杯生きた自分がいることを願う。

生きた証し

寒くなって、最近多くの患者さんが亡くなっていく。

ご家族は「もっと看てあげればよかった」と涙する。看取りは、どんなに精魂こめて介護したとしても、残された家族には悔いが残る。思いが深いほど、悔いが残るような気がする。「こんなに一生懸命、暖かい介護をされて、幸せだったと思いますよ。○○さんらしい最期でしたね」

あらためて訪問看護師に言われたことで、ご家族は救われると言われる。

涙を流しながらも、「本当にお世話になりました。看護師さんが清拭して下さったあと、とっても気持ち良かったらしく、コーラを1杯おいしそうに飲みほしたんです。その夜、私と娘が見守る中、本当に静かに・・・息が止まったことがわからないくらいに息を引き取ったんです。」

訪問看護師との患者さんの関わりを思い出しながら、最期には笑顔になる。悲しみの中に、しっかり看取った満足がある。

遺影は、旅行に行った時の帽子をかぶり、とびっきりの笑顔の写真。そこに、この患者さんが「生きた証し」があった。

こんなふうに、患者さんご家族と共に過ごした最期に時を一緒に振り返り、思いを共有できるのも訪問看護の魅力である。

 

多職種協働

「介護職に必要な医学知識」の講演を約100名の方に行ったアンケート結果がでた。

大変満足48名、満足39名、普通2名、やや不満1名。87名の方に満足以上を頂き、実際ほっとしている。せっかく講演するのだから、仕事を終わりの夜にわざわざ足を運んでいただいた方に、有意義な時間にしてほしいと思っていた。事前に、どのような話を聞きたいか具体的にアンケートをとり、その内容をほぼ網羅できるように資料を作成した。

パワーポイントで54ページ。90分の講演はあっという間に終わった。多くの質問があった。介護職の方々の利用者さんへの思いが感じられた。

介護保険が導入されてから16年。看護職と介護職の協働が必要になってきている。しかし、介護職の方々は一応にこう言われる。「看護師さんこわいから、何も聞けない」

看護師自身が考えを改めないといけないのではないか。相手は専門的な医学知識のない人たちである。勉強する機会のなかった人たちも多い。利用者さんの病状や今後起こりうる事態を説明するのに、わかりやすい言語で相手の理解度を感じながら説明していく責任がある。

当ステーションのスタッフもよく言う。「ヘルパーさん何にもわかっていない」

じゃあ、わかっていないことをきちんと説明してきたの?

私は、スタッフに言う。「介護するすべてのヘルパーさんがわかるパンフレットをつくりなさい。図や写真をつけて、誰がみてもわかるようにするべきじゃないの?」

誰もが 私たちと同じ知識を持っていない。あたかも 知識がない事が悪いことのように避難する傾向がある。

そうじゃない。わからないことは教えて、一緒にやっていこうという気持ちがあるかないかだ。在宅では、患者さんに関わるすべての人がチーム員であり仲間なのだ。その意識がない限り、患者さんにとってよい看護・介護はできない。

地域包括ケア、多職種協働とうたわれているが、すべても職種の垣根をこえて、人間同志手をとりあい仕事をすることはできないものか・・・医師や薬剤師、歯科医師も同じことである。上から目線でいばっていては、チームはつくれない。

また来年も講演を依頼された。お役にたつのであれば、いつでも出向いていくつもり。

定年まで残された時間を少しでも、多くの方の役にたつ仕事をしたいと思っている。

嫁姑

相手を思いやる心。それは、親・子供などの血縁に関係なく、ある程度、人として備わったものである。しかし、それが嫁、姑の関係になるとなぜか歪んで受け取られる。

お嫁さんが姑のことを思って、薄味にしたり、カロリーに気を配ったり、自立するために自分でできることは手を貸さなかったりすることが、「わたしを邪険にする。気の利かない嫁だ」という評価になる。それが娘であったら・・・「あの子は私の病気に気を使い、食べ物を考えてくれる。味は薄いけど我慢しなきゃね」となる。

どうしてか・・・

今の高齢者の頭の中には、「嫁のあるべき姿」があり、嫁としての自分の基準に達していないと烙印を押す。そして、すべての行動、発言した内容を自然と拒絶するようになる。嫁さんの言い分として、「私なりに一生懸命やっている。とにかく、私のやることが気に入らないのよ…」いずれその気持ちのずれは修正のできないものになる。別居するケースも多い。家に嫁ぐという考えが、もう過去の言葉となった。

長年の気持ちのずれは、介護に多分に影響する。お互いが気まずく、世話に心がこもらない。仕方なしに行っている作業とかす。

同居した段階から、お互いを尊重し、ある程度のことを許す心があれば、身の回りの世話を頼む段階になってもいい関係は維持できるのに…所詮、他人。最初から上手く行くわけはなく、上手くやっていこうとしないといけない。患者さんがしゃべる嫁さんの愚痴、お嫁さんが訴える患者さんの愚痴を聞きながら、看護師が双方を取り持っていく。言葉は、伝えないとわからない。双方に足りない言葉…「ありがとう」この言葉がたくさん交わされたら、相手を素直に受け入れられるようになったかもしれない。