マグロの刺身
少し前の話。
田舎の大きなお屋敷に90才の患者さんと93才の夫が暮らしていた。
90才の妻はパーキンソン病で寝たきり状態であった。
終末期。嚥下障害が進み、固形物は食べられなくなった。とろみをつけたり
ゼリー食にするように説明。夫はある程度受け入れたが、マグロの刺身だけは
そのまま妻の口にいれるのである。「おまえは、マグロの刺身が好物だったからな」
曲がった背中で、冷蔵庫から刺身を取り出し、ぎこちない足取りで妻の元へ・・・
節々だった太い指で箸を使い、刺身を妻の口に中へ入れるのである。
嚥下できないので、いつまでも口腔内に残っている。ヘルパーさんも困った。
主治医から、夫へは説明してもらったが、その時は「はいはい」と言われるものの
毎日、マグロが口の中に入っているのである。
戦時中、戦後食べ物のない時代を過ごしてきた二人。ごはんさえあれば御馳走。
それにマグロの刺身はめったに食べれなかった。残り少ない命であれば、好きな物を毎日食べさせてあげたい。夫の妻への思いでもあった。食べれないことは承知している。窒息の可能性を覚悟の上で、承諾せざるを得なかった。
大晦日の日。雪が降る中、妻は永眠された。静かな最期であった。
マグロの刺身・・・大晦日が近くなると、いつも思い出す。